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台湾在住サーファー清水淳×岩佐大輝 対談~台湾に根付いた人生とその先に描くビジョンを語る~

#3_imageヘッダー台湾台東県、東台湾ホテル&レストラン熱帯低気圧代表清水さんのアテンドでサーフィンをする場所の下見中、ここでも必ずポーズを取る中央清水さん photo by DRAGONPRESS沼田孝彦


日本人でありながら台湾・東河郷に移住し、サーフィンのパイオニアとして東河郷で活躍する清水淳さんとの会談も終盤に。この地で直面した試練と葛藤,数々の困難に立ち向かいながらもアグレッシブに生きる淳さんが、この場所にかける思いを語ってくれた。

<前編 移住の地・台湾で追い求めるスタイルとは>
<中編 異質に対する寛容さが魅力あるローカルを創る>

岩佐) サーフィンの話に戻りたいのですが、サーファーにとって東河郷は台湾サーフィン聖地と言われる場所ですよね。ここの波はどんな特徴があるんですか?

清水) ここの波はとにかく万人受けする波です。9月から季節風が吹き始めて波のサイズがどんどん上がって、日本に北風が吹いている時期に風を受けて波のピークを迎えます。そのあと4月くらいで高い波は終わって易しいシーズンになる。天気も良いし、暑いし、夏バイブスが溢れます。

岩佐) 本当に良い場所ですよね。サイズも馬鹿みたいに大きくならないし、波数も適度に豊富ですよね。世界中のサーファーが惹きつけられる場所なのも納得。そんな東河郷で民宿を始めるにあたっての苦労はありましたか?

#3_image01今や台湾サーファーの聖地となった朝日が差す浜辺 この美しい景色と波のコンディションは多くの人を虜にする photo by DRAGONPRESS沼田孝彦


清水) ここは波が良くて人が少ないから、日本人が気に入る場所だとすぐに分かったんですが、どうやろうか苦悩しました。色々やりましたよ、東京に行ってサーフツアーを扱っている旅行会社を全部訪ねました。でも当時、既に南台湾でいくつかサーフツアーを開催していて、現地に詳しい人たちが旅行会社をシークレットポイントに案内していたんです。だから、その人たちが僕が台東で同じことをやることをすごく嫌って、旅行会社に僕と契約しないように圧力をかけていたんです。それで去年まで日本の代表選手は例え僕の民宿に泊まりたいと言っても、旅行会社がアレンジしてくれなかったみたいです。去年は選手の希望もあって僕のところに予約が入っていたのに、直前になってキャンセルされた、なんてことがあったり。でも変えた店の評価が悪かったみたいで、今年はどうしてもという選手の声があって、やっとアレンジをしてくれるようになりました。それまですごくいじめられていたのですが、僕も気が強いのでやられても立ち上がりました(笑)

岩佐) すごい話ですね…。

清水) 僕も気が強いので全然引かないんですよ(笑) 相当色々ありましたよ。裁判沙汰になったこともあります。僕、手を出されて一番悔しかったことがあったんです。サーフィンを教えた台東の若者がいたんですけれど、調子に乗ってオラオラし始めて。ある日そいつの仲間にわざと海でぶつけられたことがあって、あがってきたところで文句を言ったら殴られたんです。でも手を出したら台湾を出なくちゃいけないことになると思ったので、手出ししませんでした。でも本当にムカついて、知り合いのサーフ仲間に刑事がいたので相談したら、「訴えた方がいいよ」って。弁護士を連れて果たし状を持っていって、タイマンを申しこむことまでしたんです。少林寺の師範にジャッジまで頼んでいたんですけど、その先輩たちから「悔しいけど、ここで我慢したら後から得るものがいっぱいある」って説得されて。それで我慢したら、得することがいっぱいありました!
結局僕に手を出したやつは、周りに友達がいなくなって、サーフィンもつまらなくなってやめて、同じような暴力を繰り返して、ボロボロになっていなくなりました。僕は台湾人の友達が増えたので、結果的には良かったです。もしチャンスがあれば、妄想の世界でボコボコにします(笑)

#3_image02エアリアルを次々とはなつ熱帯低気圧代表の清水さん photo by DRAGONPRESS沼田孝彦


岩佐) 戦ってますね…(笑) ここまで来るんだから色々なことがあったんですよね。サーフィンの作法について言えば、たしかに海で波に乗せないように露骨に徒党と組んでブロックしてくる人たちはたまにいますけど、あれはきついですよね。

清水) ローカルの人が多い場所だとなかなか乗らせてもらえないこともありますね。今は何とも思いませんが、当時は本当にムカついていましたね。

岩佐) ローカルとよそ者のサーファーの関係っていうのは万国共通で難しい。

岩佐) さて、最後になりますが、世界に出て何かをやる日本人はそんなに多くない中、こうやって淳さんは台湾で実際に活動していますが、これからのビジョンはありますか?

#3_image03東台湾ホテル&レストラン熱帯低気圧にてGRA代表岩佐(右)とLowPressure restaurant & surf guesthouse熱帯低気圧 代表清水淳(左) photo by DRAGONPRESS沼田孝彦


清水) 今はレストラン経営がおもしろい。この村には今、宿泊施設は既に十分にあるので、次は飲食店を充実させたいです。あと5年後には美味しい店がいくつかできてくると思いますが、その中で僕のルーツである「原住民と日本人の融合」というテーマを大事にしたレストランを作っていきたいです。あとは今も音楽をやっているので、音楽ライブをしたり。嫁に捨てられない限りは台東にいます(笑) この土地には縁があるし、今となっては自分の地元千葉よりも台東が自分にとっての地元ですから。

岩佐) 人生って感慨深いですね!漂流記のような濃い話、ありがとうございました!


(終わり)

台湾在住サーファー清水淳×岩佐大輝 対談~異質に対する寛容さが魅力あるローカルを創る

#2ヘッダー東台湾ホテル&レストラン熱帯低気圧にて photo by DRAGONPRESS沼田孝彦


日本人でありながら台湾・東河郷に移住し、台湾サーフィンのパイオニアとして活躍する清水淳さんとの対談は続く。
台湾原住民の生活スタイルに魅了され、現地の人々に溶け込んだ生活を始めた淳さん。そんな彼が、なぜここ東河郷で「熱帯低気圧民宿 restaurant & surf guesthouse」の経営を始めたのか、彼の人生をさらに追っていく。

<前編 移住の地・台湾で追い求めるスタイルとは>

岩佐) 淳さんは東河郷で民宿やレストランも経営していますよね。そこで食べた食事が全部美味しくてびっくりしたのですが、提供する料理やサービスに対するこだわりも強いものを持っているんですか?

清水) そうですね、原住民の生活から得られた哲学が基になっているかもしれません。僕がいた村には、日本人らしい考え方をする年配の方が多かったんです。昔の日本人の思想がものすごく引き継がれている。例えば、とりあえずみんな懸命に働く、怠けない、ものすごく勤勉です。団結して畑を耕して、各々が自分の仕事を全うしています。僕は小さい頃父親の仕事の関係でアメリカで育った経緯もあって、日本人らしいそういうことをしてこなかった人間なので、原住民の人たちから強く影響を受けました。

#2_image01東台湾ホテル&レストラン熱帯低気圧にて代表清水さん自ら地元の肉製品を燻製にしてゲストに振る舞う photo by DRAGONPRESS沼田孝彦


岩佐) どうして東河郷で熱帯低気圧民宿をはじめることになったんですか?

清水) 僕は元々、ブヌン族集落のテーマパークで働いていました。100人くらい収容できる大きな宿泊施設があって、1日に2回原住民の歌と踊りのショーなんかもあったりして。30歳でブヌン族の女性と結婚してその村に住んでいたのですが、サーフィンが好きだったのでバイクにサーフボードを積んで1時間くらいかけて頻繁に東河郷に来ていました。

岩佐) 奥さん、本当に素敵な方ですよねー。それにしても1時間かけて通い詰めるということは、サーフィン本当に好きなんですね。

清水) やっぱりサーフィンは好きなんです。台湾に来た当初から、ここは波も良いし、人も少ないスポットだと知っていたので、当時からこの場所で何かできたら良いなと漠然と思っていたんですよね。それで結婚した後、1年くらいかけて本格的に民宿を始める構想を立てて。市街地からのアクセスだったり波の具合など考えた結果、この東河郷が一番良いなということになったんです。

#2_image02移住当初は何もなかった場所もいまやロングボード世界ツアー最終戦の地に photo by DRAGONPRESS沼田孝彦


岩佐) 今でこそ台東っていったら台湾サーフィンの聖地っていわれているけど、この民宿をはじめた当時はどうだったんですか?

清水) サーフィンをやっている人なんていませんでした。台東にサーフィンを持ってきたのは僕なんです。今年WSL(ワールドサーフリーグ)の世界大会がここで開催されますが、それも計画の内でした。もともと僕らが結成した台東県サーフィン協会という団体があって、大会を開いていたんですが、その大会がだんだん大きくなってきて世界大会にしたいなと思って。そこでWSLに僕がメールを送って、この場所を紹介し、理事長にも会いに行きました。そんなやり取りをしていたら、台東県が話に乗ってきたので政府に主催してもらい、台湾国際サーフィン大会が開かれることになりました。

岩佐) 国をあげて誘致をするようになったんですね。あのWSLがここで大会を開くなんて、びっくりですよね。僕もここで開催されるCTロングボードツアーの最終戦をテレビでみますけど、ほんといい波。

清水) はい。台東は他の地域と比べてイベントが少ないんです。あるものといったら、熱気球をあげるバルーンフェスタかサーフィン。でも逆に2つしかないから、予算がたっぷり出るんです。WSLのサーフィンの大会で2000万以上出ていますよ。まだ大会までしばらく時間があるのに、もう会場設備を立て始めているくらいの熱の入れよう。台東といったらサーフィンといわれるくらい政府もバックアップしています。

岩佐) そうなんですね。それで台東が人気になってきたわけだ。今日もここのメジャーポイントに入りましたが、2ピークでサーファーが50人くらいはいたかなー。

清水) じわじわ人気が出てきました。現在も15~20%くらい毎年増加しています。3,4年前までは日本人がたくさん来ていたのですが、台東が世界的に有名になってからは、欧米人の観光客も多く来るようになりました。

#2_image03台東、レギュラーのロングウォールが最高。GRA岩佐 photo by DRAGONPRESS沼田孝彦


岩佐) 僕が住んでいる山元町もコンスタントに良い波がある場所なんですが、こんな感じに色々なところから人が来たりするような場所ではないんですよね。どうやったらこういうオープンな場所になるのかな?地方創生のヒントが欲しい。

清水) ここは元々移民の国で、台湾人だって元々は中国から渡ってきた移民たち。そういうベースがあるので、基本的に寛容な気質なんですよね。知らない人が1人で道を歩いていたら「一人でいないで一緒にこっちでメシ食べようよ!」って言ってくる、みたいな人たちです。だからよそから来る人が入り易いっていうのがあるんじゃないかな。でも、僕が台湾に来た当初行った宜蘭のハネムーンベイは当時本当に閉鎖的で、よそ者を受け付けない場所でした。観光客を現地人がボコボコにするような事件も起きていた。そういうことをしちゃったから、下の世代が育たなくなっちゃったんです。つまり閉鎖的になった結果評判が悪くなって、人が来なくなっちゃったんですよね。
でもそんな宜蘭も今は暴力事件がほとんど起きない場所になりました。当時はヤクザがサーフショップや大会を荒らす事件を繰り返していたのですが、ある芸能人が自分が開いた大会を荒らされたことで刑事告発をしたんです。それを発端にして、地元老舗サーフショップとヤクザの関係性が明るみになる一大週刊誌沙汰になって。そこから、台湾のサーフィンにおける暴力は完全にアウトになりました。

岩佐) そうなんですね。でも、人の気質の問題になると、地方創生を目指す人たちにとっては難しい課題になりますよね。

清水) 日本の田舎は入りずらい。僕もアウェイ感を感じます。元々の閉鎖感が変わっていないんですよね。

岩佐) そうかもしれない。「異質に対する寛容さ」,地方を盛り上げるために必要なマインドかもしれませんね。

#2_image04東台湾の海辺を散策、ローカルのあり方を考える photo by DRAGONPRESS沼田孝彦



台東にサーフィンを根付かせ、サーファーにとっての聖地と言われるまでの場所に変えた淳さん。次回、そんな彼がここ東河郷で直面した数々の試練と、それを乗越えてこの場所に住み続ける理由を聞いていきます。


<次回 台湾に根付いた人生とその先に描くビジョンを語る に続く>

台湾在住サーファー清水淳×岩佐大輝 対談~移住の地・台湾で追い求めるスタイルとは~

あたたかな日差しが降り注ぐ台湾サーフィンの聖地, 台湾台東県・東河郷。日本人でありながらこの地に移住し、サーフィンのパイオニアとして東河郷で活躍する清水淳さんに会ってきた。サーフィン好きどうし、どんな話ができるかドキドキだ。

台湾台東県、東台湾ホテル&レストラン熱帯低気圧にてGRA代表岩佐(右)とLowPressure restaurant & surf guesthouse熱帯低気圧 代表清水淳(左) photo by DRAGONPRESS沼田孝彦東台湾ホテル&レストラン熱帯低気圧にてGRA岩佐 photo by DRAGONPRESS沼田孝彦


岩佐) いやー、久しぶりですねー。台湾には20年ほど前から仕事でちょくちょく来るようになったのですが、ここ数年、農業を始めてからは頻繁に来るようになりました。もちろん、出張に合わせて必ず海に入っています。台湾、特にここ台東の波は本当に素晴らしい。サイズもパワーも形もどれもパーフェクト。で、清水さんが、最初に台湾に来たのはいつでしたっけ?

東台湾ホテル&レストラン熱帯低気圧にてGRA岩佐 photo by DRAGONPRESS沼田孝彦東台湾ホテル&レストラン熱帯低気圧にてGRA岩佐 photo by DRAGONPRESS沼田孝彦


清水) 22歳の時です。僕が行っていたアメリカ・ロサンゼルスの音楽大学には世界中から留学生が集まっていたのですが、その中で僕は台湾人の留学生グループに入っていました。台湾人グループの人たちは面白くて、とりあえずみんな優しかった。そこで台湾という国のことを知りました。卒業して日本に戻ってきてから、台湾に遊びにいこうということになって。それが最初の台湾です。

岩佐) アメリカにいたんですねー。どうりで英語が上手だと思った。大学卒業後は何をしていたんですか?

清水) そのあと4年間は東京で音楽関係の仕事をしていました。仕事は真面目にやっていましたが、自分には東京が合わないと感じ、こりゃダメだと思って(笑) 仕事をしながらも年に2回くらいは台湾に来ていました。とりあえず台湾が面白いと思っていたので、それから本格的に台湾に移りました。

40歳を過ぎてからエアリアルの練習を始めたという清水さん photo by DRAGONPRESS沼田孝彦40歳を過ぎてからエアリアルの練習を始めたという清水さん photo by DRAGONPRESS沼田孝彦


岩佐) そこから台湾でサーフィンやり始めたのですか?

清水) 初めて来たときから、なぜかサーフボードは持ってきていたんです。アメリカでもやっていたので、できるだろうな、と思って。当時、台北・ハネムーンベイというところにサーフショップがあるという情報を唯一ゲットし、台湾にはじめてサーフィンを持ってきたジェフさんという人を訪ねました。それでジェフさんにサーフィンができる場所を教えてもらいました。海にだれもいなかったので、素っ裸でサーフィンをしたのを覚えています。

岩佐) 気持ちよさそうですね。当たったら痛そうだけど・・・。

清水) はい。近くに店が建つまでの3~4年間はよく素っ裸でサーフィンしていました。

岩佐) 当時は台北に住んでいたんですか?

清水) そうですね。26歳の時に「俺は台湾で暮らしていける人になろう」と決めました。東京での生活は当時月収が20万円くらいで、世田谷にアパートを借りて生活していました。でも毎日カツカツの生活。台北なら7~8万円あれば当時は東京と同じような生活ができたんです。だから台湾のほうが暮らしやすいなと思って、移住を決意しました。そのためにビザを取る必要があったのですが、僕がビザを取るには学生になるしかなかったので、台北の師範大学という語学に通って中国語を勉強しながら、音楽学校で楽器を演奏するアルバイトをしていました。そのアルバイトは当時でも時給500台湾元(当時約2000円)。ライブに出ると1時間で2000台湾元くらい。結構稼ぐことができたので、良い暮らしができましたね。

岩佐) 中国語を勉強しながら、アルバイトをして、サーフィンをする生活だったんですね。

清水) はい、得意の「フラフラしながらの生活」でした(笑)
そんな生活を1年くらいしていた時に、台北でレゲエのバンドに誘われました。当時まだ台湾でレゲエが浸透していなかった中で、そのグループに人気が出てきて、台湾各地をまわるツアーにいくようになったんです。それがきっかけで台東県・宜蘭にも来るようになりました。でも宜蘭の雰囲気があまり好きになれなかったんですよね。

LowPressure restaurant & surf guesthouse熱帯低気圧 代表清水淳さん photo by DRAGONPRESS沼田孝彦LowPressure restaurant & surf guesthouse熱帯低気圧 代表清水淳さん photo by DRAGONPRESS沼田孝彦


岩佐) それはなぜ?

清水) 台湾は親日の人が多いのですが、宜蘭は割とローカリズムが強い場所だと思ったんです。

岩佐) そうなんですか。僕もたまに宜蘭に波乗りに行きますが、冬場は波のパワーも波数も十分で、いいエリアですよね。

清水) 当時の宜蘭は暴力事件ばかりでした。危なかったです。騒いだりする外国人がいると、現地人10人くらいが囲んでボコボコにする、なんていう事件がよく起きていました。

岩佐) それは、すごい時代ですね…。

清水) そう。原住民に対しての悪い噂もよく聞いていました。でも、初めて台東の原住民の人たちの集落に行ったとき、それまで持っていたイメージが大きく変わりました。原住民の人たちのほうが自分は合うし、こういう生活がしたかったんだ、と思ったんです。みんな自給自足に近い生活をしていて、レゲエの価値観とも近かった。それで自力で住み始めて、結婚もしちゃいました。

岩佐) そうなんだ。奥さんは台東の人?

東台湾ホテル&レストラン熱帯低気圧にて淳さんの弾き語りにあわせ一緒に歌を歌う会計中だった奥様 photo by DRAGONPRESS沼田孝彦東台湾ホテル&レストラン熱帯低気圧にて淳さんの弾き語りにあわせ一緒に歌を歌う会計中だった奥様 photo by DRAGONPRESS沼田孝彦


清水) 台東の山の人です。ブヌン族出身。ブヌン族の集落で音楽イベントをやっていた時に知り合いました。ブヌン族の村の人はすごくて、原住民のテーマパークみたいなものを作って運営していたんです。歌と踊りのステージをやったり、畑で採れたフルーツを使って加工品を作って売り物にしたり、雑貨を作ったり、色んなものを作っているんです。普通だったら地元には仕事がないから、若い人は村から出ていくじゃないですか。でもそうじゃなくて、彼女の村の人たちは自分の土地で暮らしていけるシステムを作っている。僕はそこに影響を受けました。僕が台東に住み続ける理由です。

岩佐) それは意外ですね。ここは波が素晴らしいから、そのためにいると思っていました。僕も世界中どこに行ってもサーフィンをするのですが、ここ台東の波は素晴らしいですよ。

清水) 僕は波を求めて世界中を回っているんじゃなくて、音楽とライフスタイルのために回っているんです。自分の見える半径1キロ以内で生活の大部分を賄うっていうライフスタイルを自分は求めていたんですよね。

東台湾ホテル&レストラン熱帯低気圧の目の前にある海辺にてカメラを向けると必ずなにかしらポーズを取ってくれる photo by DRAGONPRESS沼田孝彦東台湾ホテル&レストラン熱帯低気圧の目の前にある海辺にてカメラを向けると必ずなにかしらポーズを取ってくれる photo by DRAGONPRESS沼田孝彦


台湾で出会った原住民の人たちから強く影響を受け、台東での暮らしを始めた淳さん。次回は淳さんが経営する民宿の話も聞いていきます。


<次回 異質に対する寛容さが魅力あるローカルを創る に続く>

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~ITで形式知化された農業の横展開~
将来のミガキイチゴの生産者を募る、関東での説明会が今月5月14日品川の会場で行いました。

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地方創生キーワードはイケてる首長×よそ者×地元の名士(岩佐大輝 × 黒田泰裕 対談)

宮崎県南部の日南市。港町として栄えた海の美しいこの町も、近年は過疎に苦しむシャッター街と化していた。そんな同市で、劇的な地域再興をもたらした立役者たちに会ってきた。

[写真] ABURATSU COFFEE 商店街の一角にあるお洒落なカフェ。中は若い人たちで賑わう。


基礎自治体の再生は首長がイケてる人じゃないとはじまらない

岩佐)3年前くらいから日南はすざましい復活を遂げたことでかなり注目されていますね。油津商店街を少し歩いただけでも、たくさんの若い人たちが集まるカフェや将棋大会など、活気がある様子が伝わってきました。再興した一番のポイントは何だったんですか?

黒田)やっぱり日南市長に若手の崎田恭平さんが当選した年に、民間からは木藤亮太君(日南市の中心部にある油津商店街を再生するテナントサポートマネージャー)と田鹿倫基君(日南市のマーケティング専門官)も登用されたことですね。今から4年前、あの年が全ての分岐点だったと思います。
 今新しいITベンチャーが次々と入ってきているので、元からいる商店街の人たちともう一度この場所をリセットして新しく作り直していく必要があると思っています。ここは商店街再生というよりも、そういう賑やかな場所が新しくできたという感覚にしていきたいと思っています。昔からいる商店街の人たちは、あれ?と思うかもしれないけれど。この街は、福井県の若いデザイナーが設計したんです。公募で77人来たうちの1人でした。人口5万3000人のこの町でも、こうやってお洒落な場所があれば、いろいろな人たちが来てくれるんですよね。

岩佐)すごく良いなと思ったのは、昔の古き良き商店街をそのまま復活させるんじゃなくて、その遊休資産を利用して新しいことを始めていること。そもそも商店街って町の一番良いところにありますよね。だからやり方次第では、そのポテンシャルは大いに活かせるんだなと、ここに来て感じました。

黒田)昭和40、50年頃は景気が良いから、駅前の商店街なんかは何にもしなくても店が入ってきて、しこたま儲けることができた。でも時代の流れに沿ってどんどん廃れて。それは何も手を打たなかったからじゃなくて、商店街のなるべく状況なんですよ。なるべくしてこのような状況になってしまっている。だからそこに同じように商店街を再生させることはナンセンスな話なんですよ。再生ではなくて、囲い込まずに解放することが必要なんです。解放して、そこにどれだけ切り拓いていける人を呼び込めるかが、大事なんです。

岩佐)なるほど。コミュニティハブみたいな場所ですね。今僕は農業生産法人の他に、町おこしを目的としたNPO法人GRAという組織でゲストハウスを作ったり子どもたちや若者の教育事業を手伝ったり、コミュニティーの活性化に取り組んでいます。なので、黒田さんがされているような事業にすごく興味があったんです。
 僕はこういう基礎自治体に関しては、まず首長がイケている人じゃないとどうしようも無いと思っているんですけれど、黒田さんの感覚ではどう思いますか?


黒田)その通りですよね。政治家のドロドロの人間関係のような世界に関わってきた人はそういう首長になってしまう。でもここは、崎田君が市長になって、既成の常識を打ち破ったところからスタートしている。既にIT企業を10社誘致できたんですけれども、社長たちに何で日南に来たのかと聞くと、”ここは全国どんな自治体の行政よりも対応が早いから”と言うんです。普通の行政なら1週間かかることを、ここは2時間くらいで答えを出すから、他の場所よりも条件も良いし対応も早いしで、日南を選びますよね。よくここは商店街のモデルだと言われるんです。少なくとも3年間、僕たちはその商店街物語を守って、挑戦してきました。僕らは、新しくこの商店街に出てきた人たちが成功するためのサポートをしていかなければいけないんです。

岩佐)行政サービスも素晴らしいんですね。それに子育てをする施設があって、別のところではこども農園もできる。商店街があって、お洒落なカフェなんかもある。あと僕だったら毎日サーフィン行くだろうけど、海もありますよと。

黒田)行政がしっかりしているという要素がありますが、やっぱりそこにもしっかりしたリーダーがいないといけないんです。GOを出せるのはトップだけだから、2時間でGOを出せるトップでないといけない。やっぱり大事なのは首長なんです。

[写真] 日南にはきれいな海があり、移住するサーファーも増えているという。



NPO的な株式会社、「油津応援団」の役割

岩佐)今日商店街にも若い人たちがたくさんいて、ああいう人たちがオーナーシップを持ってやっているんだなと感じました。今リーダーは何人くらいいるんですか?

黒田)僕がいて、市長の崎田君がいて、田鹿君がいて、木藤君がいて、村岡君がいて。今は30代のリーダーがぞくぞく出てきていますね。崎田君や村岡君をはじめ、時代の先を走る人たちが周りにたくさんいるんです。保守的で風当りも強い場所で新しいことをやっていくのは、それなりに覚悟を要すること。だからこそ昔から日南に住んでいる僕は、日南の人たちとの人脈を大事にしました。僕たちが立ち上げた会社、油津応援団も、もとは僕と村岡君と木藤君の3人で資本金90万円を出し合ってできた会社なんです。それが今では株主が40人以上も集まって1600万円まで増えました。

岩佐)株主が40人以上!? どんな形の会社なんですか?

黒田)株式会社です。立ち上げ当時はお小遣いから出せる30万円ずつを3人で出して、他に必要な資金は僕がずっと所属していた商工会の役員に頭を下げて出資してもらいました。今集まった株主の中には僕たちよりも出資している大株主もいて、株主総会もちゃんとやるし、取締役もそこで選ばれます。ちゃんと配当もありますよ。九州パンケーキだったり焼酎だったり現物支給も。この会社が担うことをみんな分かっていて、それに賛同してお金を出してくれているんです。

岩佐)こういう形ってNPO法人だったらあり得るけれど、株式会社としては珍しいですよね。

黒田)先週も、ここの近くの歯医者さんが”俺も何か協力したい”って言ってくれたんです。今はそうやって周りの人たちから僕らのもとに来てくれるのが、すごく嬉しい。こうやって、もともと3人だったところから44人まで増えたんです。44人のうち、村岡君が集めた宮崎市の4人以外はみんな日南市の人たちです。商工会のメンバーもいます。あとは市民の人たち。”店を作ってくれてありがとう、だから私たちもお返しします”って言ってくれる人たちがいます。

岩佐)この話が今日聞いた話の中で一番ビックリだな。

[写真] 左から、田鹿氏、GRA代表岩佐、油津応援団代表 黒田氏


黒田)そうですよね(笑) 経済産業省とか中小企業の役員とかが来て一番興味を持つのが、会社の実態なんですよ。”油津応援団ってどうやって資金集めているんですか?”って聞かれるんです。それで答えると、”何でこんな民間会社が国の政策補助金を1億円も使ったりできるんですか?”って。できるんですよ。

岩佐)今まで大きな事業はどんなものがあったんですか?

黒田)大きいのは油津ヨッテンとコンテナ(スタジオやフリースペース)で1億5000万円ですね。ヨッテンの運営は市からの委託事業として行っています。一部は僕たちの手出しで、全体ではまだ借金は3000万くらい残ってはいますが、少しずつ返済していっています。リスクはありますが、それでも実行できるのが我々の強さだと思います。・・・普段こんな話はあまりしないのですが(笑) みんなお金の話は遠慮しているのか、聞かないから。

岩佐)僕お金大好きですから。冗談です(笑) 僕は24歳の時にITの会社を作ってからずっと経営者をしているんです。その会社を10年近くやった時に東北で震災が起きました。僕の地元が宮城県の山元町というところなんですけれど、津波でほぼ全滅してしまったんです。そこで何とか故郷を復活させたいと故郷へ戻って、町おこしのためのNPOの他にイチゴを作る農業生産法人も作ったっていう経緯もあって、黒田さんの経営方法にもとても興味があるんです。

黒田)僕は中小企業診断士なんだけど、今の若い人は経営の基本が分かっていない人が多いように思う。油津応援団では、僕が中小企業診断士で木藤がランドスケープのデザイン担当、村岡君が飲食店担当。いろいろな人が揃っている集団だから、仕事をきっちりやらせてもらえるんです。だから僕は財務管理にすごくうるさい。ちゃんとキャッシュフロー管理はするし、設備関係は基本的には借り入れをしないで出資を集めて作っています。

[写真] 2015年11月にオープンしたあぶらつ食堂。となりにはABRATSHU GARDENという小さなコンテナや、油津 Yottenというスタジオやフリースペースもある。どれも油津商店街アーケード内にある、老若男女が集まる拠点だ。



商店街再活性化の担い手は月給90万円!

岩佐)そうなんだ。ちょっと聞きたいのは、このプロジェクトが始まったとき、ここは真っ暗だったし、人は通らなかった。そういう町って全国にいっぱいありますよね。僕の地元の町もそういう状況になりつつあるんだけれども、そこで最初にやるべきことって何でしょうか?

黒田)まず担い手を1人決めることです。1人のリーダーを決めること。日南の場合は、崎田君が市長になったあと、木藤君が民間人の中から登用された。商店街に20店舗誘致することをミッションとして月給90万円で任されたんです。そして4年で達成しました。誰を登用するかは市なり議会が決めることなんだけれど、そこでもいろいろ言われるわけですよ。でもそれを押し切るだけの強引さがないとダメ。田鹿君が来た時にも、議会からは否定的な意見も言われました。でもあいつじゃなければダメだと、そこまでやりきることですよ。

岩佐)リーダーを定めるっていうことなんですね。だからそのリーダーを定めるには、本当のトップが、従来のしがらみにとらわれない新しい人を呼び寄せることが大事なんですね。完全によそ者ですよね。

黒田)よそ者が良いと思いますよ。それだけの風を受けてもやれる、という人間を連れてくる。それでちゃんと権力を持たせるんです。合議制じゃ絶対ダメですよ。だって商店街のオジサンが5人くらい集まって決められることなんて、そこそこのもんだけですよ。自分たちの立場を脅かすようなことは決められない。去年やったことを少しだけ形を変えてやるくらいのことで、町が変わるなんてことないでしょ?
 木藤君のポジションになる人を全国から呼び寄せるときに、審査委員を作らないといけないんですけど、全国から集まってきた審査委員リストの中には、商店街会長とか大学の先生、市の議員ばかりで、はっきり言って、マネジメントができる人が1人もいなかったんですよ。そこで僕が、コンサルティングの話にはものすごく詳しい村岡君を推薦したんです。そういう観点からまず審査委員を数名選んで、それから最終的な公開プレゼンで木藤君に決まったんだけれど、その村岡君と木藤君と私がいつの間にか繋がっていたんですよね。で、この3人で会社を作っちゃったと。

岩佐)まさか日南に来て村岡さんの話を聞くとは思わなかったな。黒田さんも、やはり木藤さんが選ばれると思っていたんですか?

黒田)思っていましたね。腰の低さとか、地に足が付いている感じがしましたね。公開プレゼンをした中には大手広告会社の上からモノを見る人たちもいて、”この人たちは商店街の酒屋のおっちゃんたちと酒を飲んで、ちゃんと話ができるのかな?”と思ってしまうんですよ。面白いんだけど、公開プレゼンの後、夜の商店街で9人の候補者たちを交えて、30人くらいで飲み会をしたんですよ。実はそれも審査の1つだったんです。飲み方はどうかとか、みんなで見るんです。これが案外大事。だってプレゼンだけじゃその人の中身なんて分からないですから。中にはプレゼンはすごかったけど飲み会ではうちの職員にセクハラするヒドい人なんかもいて。やっぱり飲むと本性が出るんですよ。対して、木藤君はひたすら酒を注いで廻っていた。”あいつはなかなか良い”となりましたね。彼は実際にここに来て、最初に若い人たちを集めたり、コミュニティー作りを一生懸命やりましたね。

岩佐)いやー、人に見られているっていう意識を持つことは大事ですね(笑)

[写真] 左 油津応援団代表 黒田氏 右 GRA代表 岩佐



地方創生キーワードはイケてる首長×よそ者×地元の名士

岩佐)今いろいろなところで町おこしがブームになっていて、上手くいっているところとそうじゃないところとあると思うんですけれど、上手くいっている場所の特徴はどんなことがあるんでしょうか?

黒田)例えば、どこかの町でここと同じような施設を作って同じようなことをやって、必ず成功するかというと、そう簡単にはいかないと思う。ここが成功したのは、既に成功できる環境があったからなんです。それは優秀な市長だけじゃなくて、行政の姿勢もそうですね。市役所の職員の中に、こいつ本当に役人かっていうくらいバリバリのやつがいるんだけれど、ヨッテンの1億5000万円の事業の時、結局は9000万円の補助金が下りたんだけど、その手続きも一緒にやってくれて。新しい商店街は、そういう人がいるからできたこと。表面的なことは僕らがやっているんだけれど、実際は表面に出ない彼がいないとできなかった。彼の存在は大きかったんです。あとは油津町の民間の僕らにお金を集めてくれる会社があったこと。そして我々は自分の会社から報酬をもらっていないんですよ。村岡君は一平での報酬があるし、僕は中小企業診断士の仕事で給料をもらっている。でもやっと利益も出るようになったので、来年あたりから少し貰おうかなと村岡君と考えています。僕たちは良いけど、後の代に続かなくなってしまうから。でもそれ以上に、10人のパートやスタッフたちにボーナスを出してあげたいなとずっと思っているんですけれどね。

岩佐)やっぱりパートさんを満足させて、社員を満足させて、経営者は最後ですよね。

黒田)僕は他に収入がありますから、それで十分です。それよりも、例えば知らない人が歩いていて、その人から”黒田さんでしょ?頑張って!”とか”こんなに変えてくれてありがとう”とか言われることが、涙が出るほど嬉しい。そういうつもりでやってきたんじゃないんだけれど、結果的にそう思ってもらえることができれば、人生としては最高だなと思います。それが僕にとっての給料だと思っているんです。
 僕は3年前、東北で津波の被害にあった山田町というところに行ってそこの商店街を見てきたんだけれど、大変なところだった。今までは被災地だからということで仮設の商店街を作ってもらったりしていたんだけれど、今度はみんなでお金を出し合って作るわけですよ。みんな60歳過ぎた人たちばかりです。そんな人たちに”自分たちで借り入れしてやれ”って無理な話ですよ。でも僕がそこに行った時この商店街のビデオを持って行ったんだけど、そこの人たちにも言われたんです。”私たちから見ても、黒田さんのところの商店街は大変そうだ”って。逆に励まされちゃって。”私たちも頑張るから、黒田さんも頑張って。これで油津町を変えたら私たちも行くから”って、おばちゃんたちが言ってくれたんです。

岩佐)3年あればいろいろできるんですね。

黒田)できるできる。みんなやらないだけ。”来年するから”っていうでしょ。でも今年できないことは来年もできないんですよ。絶対できない。それなら今できるだろ、と。1か月あればできるだろ、と。ぐだぐだやっていたってしょうがないわけですよ。半年やってダメならば他のことをやった方が良い。

岩佐)話を聞いていると、崎田さんみたいな優秀な首長や行政の人たちがいて、よそ者の木藤さんがいて、村岡さんがいて、何よりも地元の名士である黒田さんがいて。そういうチーム編成が地方創生には最高なんですね。きっとよそ者だけでもダメで、黒田さんのような地元の最強戦士がいないとやっぱりダメですね。

黒田)この場所に長く住んでいて、地元の人からも慕われている人も重要です。だからもし他の新しい場所でも成功するとしたら、この人はここでいうあの人だ、っていう人を見つけていくことですよ。来年ここに中小企業庁の官僚が来るんですけれど、地方創生が仕組化されたり法整備されたりすると全然面白くも何ともなくなるんですよね。最後は人ですから。その地域に住む人、地域によって全く違う人たちがやるわけでしょ。だからモデル化、標準化されたタイプっていうのは難しくて、”あそこに行って見てきてごらん”としか言いようがないんです。でも、僕たちがやったことを後世に残すために、取締役に30代、40代の人を積極的に入れています。僕らと同じ時代に同じ場所で一緒に汗をかいた人間が次の役員をやる。僕と村岡君と木藤君で始めたこの活動を、そうやって引き継がせていきたいと思う。それは人間がいる限りできることなんです。



黒田 泰裕(くろだ やすひろ)
1953年日南市出身。株式会社油津応援団代表取締役。日南市中心部の油津商店街を再生に導いた立役者の一人。1978年大学卒業後、日南商工会議所に入所。2012年同所事務局長を経て、2014年に油津の中心市街活性化事業のため、木藤亮太サポートマネージャーと村岡浩司氏3人で(株)油津応援団を組織。2016年に同社代表取締役に就任。中小企業診断士保有。

同級生の林宙紀が仙台市長選に出馬したので話を聞きに行ってみたよ<後編>

高校時代の同級生、林宙紀が仙台市長選に出馬したので話を聞きにいってみたよ。

<前編はこちら>

[写真] GRA代表 岩佐(左)と林宙紀氏(右)


岩佐)さていよいよ本題。当選したら、どんな仙台をつくりたいの?仙台は大好きだし、いい町だけど、政令指定都市の中では、いまいち突き抜け感がないじゃん、残念ながら。でもポテンシャルはあると思っているんだ。起爆剤になるようなことをやってほしいんだよね。

林)これは日本全国どこもそうなんだけれど、まず解消しなければいけないのは少子化と高齢化、それに伴う人口減少。これの解消のためにどういう回答を出すかっていうのが結構大事だと思っていて。今、人口減少は避けられない、だから将来人が少なくなって、行政サービスが悪くなるとか市場規模が小さくなるとか僕らの生活水準が下がるとか、いろんな悲観的なことばっかり言われてる。こんな夢の無い国を、僕らの子供の世代が大人になった時に引き継がせたくない、と僕は思う。そもそも仙台市は人口減少を前提に街づくりをしているわけ。間違いじゃないと思うんだけど、人口減少を当たり前として捉えずに人口を増やすっていう発想はないのか、と。そういう思いが僕の中にある。

岩佐)そうだね。人口の問題が解決されればかなりの問題が解決されるよね。でもそうなるにはいろいろ踏み込まなきゃいけないよね、例えば婚外子の問題とかさ。結構タブーとされていたところに踏み込まなきゃいけないんじゃないの?

林)いろいろ切り口はあると思うんだよ。でも結局人口減少の原因って何だって言ったら少子化なんだよね。でもそれを是としていること、仕方ないと思って諦めていること自体、僕は間違っていると思っている。

岩佐)少子化問題って一番のソーシャルイシューで、何かしら対策がなされようとはしてるだろうけど、次の一手が無いって感じがするよね。



林)そう。結局今言ったことってすごく大事で。20年、30年前から少子化で人口が減るよってずっと言ってきているのに、何も対策できていないじゃない。これって何でなのって思ったら、政治家が自分の当選のことだけ考えてるから。だって子供のことを言ったって票にならないわけよ。それよりは福祉とか年金っていうところを強く厚くしていった方が、自分の票になるよね。だから子育てのための予算なんて後回しでいいんだよ、となる。選挙の時にはそうなっちゃうわけ。でもそうじゃなくて、子育てはどうする、子供を増やすにはどうするっていう話を真剣にやらなければいけないのに、国ではそういう話にほとんどならない。

岩佐)それはやっぱり選挙が絡んでいるんだよね。票の分厚いところに政策も偏りがちになるのかな。

林)そうなる。それは当然そうなる。

岩佐)でも例えその人達の票が分厚いっていっても、厚さ×年数で言ったら、薄い×年数とあんまり変わんないわけだよね。はっきり言って死んじゃうんだよね、今は分厚いけれど。僕が面白いと思うのは、これは公的な選挙ではすぐには無理かもしれないけど1票に重みをつけた方が良いと思っていて。例えば、これから30年生きていくであろう年齢の人の票数は×3とかさ。あと10年くらいの人は逆に×0.5とか。

林)それもありだよね。これは法律だから国でやるしかないけど。

岩佐)少子化の次は?

林)働く場所。簡単に言えば企業。若い人たちがこの仙台に残って働こうと思える会社。若い人たちは企業の本社に行きたくてみんな東京に行ってしまう。転勤等で仙台に来たとしても2~3年で東京に戻ってしまう。

岩佐)仙台に本店をいっぱい作らないといけないわけだ。仙台を創業の地にしたいということ?

林)そう、創業を強力に支援するということ。そのためにまず1つ目は税制。これこそ国が絡まないといけないから、まさに特区を作る必要がある。加えて、これも特区政策の一部になるけれど、創業した企業に対して会社の人数によって行政が支援をしますっていう制度が既にIT関係の業界にあるんだよ。それをITの分野に限る必要は全くないわけ。ここで雇用が作れるとしたら、どんな業界でもやっていきましょうというのが2つ目。3つ目は本店誘致っていうのがある。要は本店を仙台に移動してくれた場合、行政が支援をします、というやり方。そういうことも考えていって良いんじゃないかと思う。住環境としては仙台は良いと思うから、本店を移して仙台で暮らしてほしい。

岩佐)最高な場所だよね。街はきれいだし食べ物はおいしいし、温泉もあるし、スキーもできるし、サーフポイントもある!地方をどうやったら魅力的で強いサステイナブルな街ができるかっていうことを考えた時に、一つの切り口としてはその街に直接海外を狙えるような強烈な産業があるかどうか大事だと思う。仙台はどんな産業にポテンシャルがあるのかな?



林)仙台、あるいは宮城、東北全体でも言えるんだけど、これだけ全国的に農業に可能性を見出そうとしている中で、東北っていうのは有利だと思うんだよね。それと、まさしく自然エネルギー関係。ここで世界に通用するマーケットを作っていく。ここが消費地というよりも、ここから世界に出せるっていう状態を作っていくことが結構重要だと思う。

岩佐)農業っていうのは一つ切り口だよね。GRAがある山元町は人口1万2000人しかいないんだけど、国内外の人含めてイチゴ狩りや視察で年間約2万人の人が訪れるんだよね。際立った何かがあれば世界中から人は集まってくる。そしてその場所がハブになって、そこからエネルギーが広がっていくっていうのが必ずあると思っているんだよね。

林)そうそう。僕もずっと農林水産関係やってきたし、落選している間も輸出事業をやっていた。そうやって見てきて、農業の可能性っていうのはものすごくあると思うんだよ。空港にも仙台空港輸出組合ができたわけだし。そういうものをどんどん利用していけば、仙台は突き抜ける存在になると思う。

今全国で政令指定都市は20あるんだけど、仙台市って人口で言ったらその中の11番目。でもそれぞれの地域で代表的な都市は軒並み150万以上人口がいる。そういった意味で150万人っていうのは一つの目標になる。「150万仙台プロジェクト」はそういう理由から来ている。たぶんこの数字を達成するには30年くらいかかるんじゃないかと思っているけど、150万っていう目標を立てることで、今人口減少って言われている悲観的な見方を僕はまるっきり変えたい。それは子育て支援、少子化対策ができて、魅力的な職場も増えて、外からたくさん人が集まってくる土地になれば人口は増えていくはずでしょ?その結果として150万人になるかどうかは将来の話。でも目指していこうよと。目標が無いところに進歩なんてないから。

岩佐)なるほど。林から伝えたいことはまだある?俺のブログは読者さん結構多いからね。特別タダでいいよ(笑)

林)そうだね、さっきの政令指定都市の人口の話なんだけど。一番多いのが横浜市で370万人。その次が大阪で270万、次が名古屋で230万。札幌が200万近くいて、福岡も155万人。一方で150万人よりちょっと下なのはどこかって言うと、京都市で147万人。ちなみに仙台は108万。よくよく見ると、それぞれの地域で一番だって言われているところには150万人近く、あるいはそれ以上の人口がいることが分かる。仙台は東北で一番大きいって言われているけれど、108万人なんだよね。それに、地下鉄をちゃんと持っているのに人口100万人ちょっとしかいない都市は仙台だけ。地下鉄がある都市で且つそれが機能している都市っていうのは大体150万人以上人口がいるからね。ちょっと投資が早かったかもしれない。でも作ったんだから利用しない手は無いと思っていて。これをもっと利用できる街づくりをやっていくべきだと思う。僕は仙台市のやり方が今まで間違っていたとは言わないし、良かったとも思っている。でも仙台市には今までなかった異質な流れっていうのを持ち込んでいかないといけない。

岩佐)たくさん人が来るって面白いよね。海外の人たちの誘致ってどうなの?

林)それも一つありだよね。ただそれは選択肢の一つ。やっぱりここは仙台市民としてガラッと変わった仙台市を作っていきたいと思う。そういう意識を持ってもらうことが一番重要かなと。僕が勝てば、どこの政党とも手を組んでいない人、どこの業界とも手を組んでいない人が選挙で勝ったことになる。つまり市民の力だけで勝ったと言える。政党も業界も関係ない。市民の力だけで勝ったリーダーが仙台にいると。全国で見てもなかなかそんなことは起きないよ。

すると、「仙台市民すごいな!」って仙台は全国的に注目されるようになる。それで当選させてもらった僕がやがて結果を出すことができれば、仙台市民が新しく作ったこの流れに、国を含め日本全国のいろいろな自治体が「仙台市の真似してみよう」ってなる。そうすれば仙台がリーダーになれるよね。東北って、長らく日本の中でどこか遅れた感っていうのがあったでしょ?でも今度は、震災から6年経った東北が、日本を引っ張っていくリーダーになり得る。僕が勝つ意味はここにある。その流れを作るために、今回僕は勝ちたい。



岩佐)粋な感じだね!仙台から西の方に攻め上がっていこうよ。まさに伊達政宗だね!

林)伊達政宗公は生まれてくるのが20年、30年遅かったと言われ、その後は戊辰戦争で賊軍になり、開発も他の地域に遅れ、そんな歴史の中で仙台は今に至る。今年は伊達政宗公生誕450年の年。これを機に、今まで遅れていたと言われてきたものを反転攻勢するんだ。政宗公が取れなかった天下をここから取りにいこうと。

岩佐)面白いじゃん、それ!「150万仙台プロジェクト」は最高だね。何だかものすごくビジョナリーで、わくわくする!それで仙台の人たちの心に火が付いて、次は俺たちが主役の番だ!って思わせてくれるようなリーダーが仙台には必要。

林)今回の選挙って政策ももちろん大事。大事なんだけれど、それ以上に東北の人たちが「今度は俺たちが日本を引っ張っていくぞ!」っていうビジョンを持つっていうことが大事だと僕は思う。東北はあの震災を経験して、でもそこから東北の人たちは立ち上がったよね?あの災害からこれだけの短期間で立ち上がるなんて、なかなかできない。あれだけ耐え忍んで。

岩佐)僕は最初に震災でやられた故郷の姿を見た時、もうダメだと思ったもん。これはもう終わったと思ったよ。

林)僕もそう思った。でも立ち上がったでしょ?GRAもそうだけど、こういう先進的な会社も増えている。ピンチをチャンスに変えるってよく言うけれど、それを本気でやんなきゃいけないと思うんだ。この先200年、300年後を見据えて何かできるとしたら、それをやるべきはまさに今だと思うんだよ。

岩佐)今潮目が変わるか変わらないかの境目にあるんだよね。

林)そういうこと!僕が仙台市長選挙に出る理由は、そこにある。

終わり


林宙紀(はやしひろき)
昭和52年11月13日生(39歳)
宮城県仙台第一高等学校 卒業、ラグビー部(副将・バックスリーダー)。東京大学教育学部 卒業、東京大学アメリカンフットボール部(主将)。政策研究大学院大学(GRIPS) 修了、国際開発学コース(開発学修士)。国連開発計画(UNDP)、。地球環境ファシリティインターン、ソニー株式会社財務部を経て、ニュースキャスター・ナレーター等として民放各局にて活動。平成24年12月第46回衆議院議員総選挙にて当選(1期)、東日本大震災復興特別委員会、農林水産委員会・環境委員会に所属。

同級生の林宙紀が仙台市長選に出馬したので話を聞きに行ってみたよ<前編>

高校時代の同級生、林宙紀が仙台市長選に出馬したので話を聞きにいってみたよ。

[写真] GRA代表 岩佐(左)と林宙紀氏(右)


岩佐)林が仙台市長選にでるなんて、びっくりしたよ。林は中学時代からすでに有名だったよね。宮城県で成績は常にトップ。高校の1年2組の時に同じクラスで、そこから付き合いが始まったわけだけど、ラグビーやっててイケメンでモテまくった。まあ俺の次くらいだけどね(笑)その後、東大に入ってSONYに入社したと聞いていたけど、いつの間にかラジオDJに転身して、今度は衆議院議員。そして今度は仙台市長選に出馬。かっこよすぎるぜ。そもそもなんでこのタイミングで市長選に出たの?



林)その前にここまでの状況を言うとね。衆議院選に落選してからも当時所属していた維新の党の宮城県の責任者をやっていて、ちょうど2015年に仙台市議選とか宮城県議選があったんだよね。その時に維新から公認候補を出すということになっていたので、自分の責任としてちゃんと選挙活動をやろうと思った。その宮城県議選が2015年の11月に終わった後、この先自分は政治活動を続けていくべきかどうか、かなり悩んだんだ。悩んで、悩んで、悩んでいたんだけど、そこから半年経って民進党っていう党ができることになって。それで民進党に合流して、宮城2区の支部長になった、っていう1年間だった。

その間にいろいろあったんだよね。僕が合流する前の民主党時代の宮城2区のお金に使途不明金がいっぱい出てきて、その時責任者だった僕がその調査をやったりした。この中で僕だけが外様っていう状態でもあったし、やっぱり民主党から来られている人達と僕では考え方が違ったんだろうね。そうして恨まれもしたけど、当然、組織としては正しいことをやったと思ってる。



岩佐)要は変なカネの流れが党内にあったわけだね。それを突き止めようとして林は思いっきりやったわけだ。それは正しいよね。なかなかできることじゃないよ。恨まれるし、殺されるよね、ゴッドファーザーの世界だったら(笑)。

林)そう、正しいことをやったと思っているから後悔はしていないんだけどね。それで市長選の話なんだけど、そもそも僕がみんなの党として国政に出馬するときから、「市長選に出た方がいい」っていう話はずっとあったんだ。その流れで、「今年また仙台市長選があるから、国会議員じゃなくても地元のために市長選に出ないか」、っていう声をいろんなところから頂くようになって、いよいよ本格的に考え始めた。でもその時はまだ民進党の組織人だから、党が許可しなければ出馬できない。そんな中、4月になって前市長の奥山さんが引退することになったんだよね。

岩佐)奥山さんが辞めることになって、ざわざわしてた時期があったね、選挙には誰が出るんだと。

林)そう、ざわざわしてたんだよ。自民党は誰を出すんだ、民進党は誰を出すんだ、みたいな話になってくる。その中で、そもそも僕が政治家を目指すことになったのは、「東北の地を何とかするには政治を正さなければいけない」っていう思いから始まっているわけじゃん。

東北を何とかしようと思ったら仙台がもっと頑張ってグイグイ引っ張っていかないとどのみち東北の発展はない、であれば、仙台市に覚悟を持って決断できるリーダーがいてもいいんじゃないか、と。そういうリーダーがいれば東北はもっと変わるんじゃないかと、であれば自分がやってみたいと思ったんだ。その気持ちが大きくなっていく中で、民進党の上の人たちと相談していったんだよね。

そこで「もちろん林も選択肢の1つだ」って言ってもらっていんだけど、ただ民進党って結局民主党の名残で左翼のイメージがものすごく強いと思うんだよね。でも僕は思想的にはほぼ真ん中、むしろ若干保守に寄ってると言われている。仙台市長選に出るんだったら左翼側の人たちだけじゃなくて、当然保守側の人たちの支持も必要だと思って、まず民進党からは離党して、まっさらな状態でみなさんに選んで頂くべきだろうと思った。

そもそも仙台市長選挙なんだから、政党の意向なんて関係ないでしょ。それなのに、自民党がこの人連れてきました、民進党がこの人連れてきましたっていう政党間の争いにすること自体がおかしいんじゃないかと思っていて。僕は党県連の候補者選考委員会っていうものにも入っていたんだけれど、何かおかしいよなって思ってた。別に政策も何もないのに、この党から誰を出そうかって。こういう政策の下に、これだったらこの人にお願いしようとかじゃなくて、まず誰出す?っていう話になるわけ。

そのことにずっと違和感を持っていて。それで選考委員会を2回やったところできまったのが、「野党としての相乗りではなく、民進党として候補を出す」、それと「野党共闘はやらない」ということ。その2つしか決まっていない状況の時に、僕は市長選に出たいという気持ちが既にあって、それを民進党参議院議員の桜井さんに相談したら、「その気持ちはまだ言うな」って言われた。それで黙っていたら、いつの間にか宮城一区選出衆議院議員の郡さんが出るっていう話が確定していて、一体何だそれは・・・と。

そもそも僕が桜井さんに市長選に出たいんです、といった時に、桜井さんから「それならお前はまず民進党を離党しろ」と。離党した上で無所属でやると意思表示をして、そこに民進党が野党の1つとして支援をするという形をとるのがベストだ、という話になって。僕もそう思っていたから、離党届も準備して、いざ離党届を郡さん(県連幹事長)のところへ出しに行こうと思ったら、その日の朝に桜井さんから電話がかかってきて「郡が出るから今回お前はやめとけ」と。いやいや、ちょっと待て、ってなるでしょ(笑)



岩佐)うわー、なんだか魑魅魍魎。そういう世界で生きてくのは大変だ・・・。駆け引きの世界だな。俺の好きなゴッドファーザーの世界だ(笑)。

林)結局民進党は郡さんを出して、市長になってもらうと。そうしたら宮城1区の席が空くから、そこに桜井さんが次の衆議院選挙で宮城1区として出ると。それで1区と2区で、俺とお前で1対1で選挙やって、そうしたら勝率もあがるだろ?って話になってさ。

岩佐)前哨戦も含めて戦いなんだね。なんというか騙しあいっていうのかな。林はあまりにもピュアだからそういう駆け引きは向いていなそうだし、それがいいところなんだろうな。

林)ついでに、やらないと言っていた野党共闘もすることに決まってたしね、いつのまにか。その時に、ちょっと違うよなと。僕が思っていた政治とは違うよなと。そもそも、どこの政党がどうとかじゃなくて、市民がどう思っているかを問うために市長選があるわけで、そんな国政政党同士の争いにする意味がない、と思うんだ。そう考えた時、もしかしたらそもそも僕が民進党でやってきたこと自体もしかしたら良くなかったのかもしれないな、という思いに至って、じゃあ僕は離党するのでって言って離党した。

岩佐)潔いね。さすが。それで、晴れて無所属、新人、林宙紀として仙台市長選挙に出馬し、対抗馬は旧宮城1区の衆議院議員、郡和子さん。もう一人が、自民党が全力で支持する清月記の社長、菅原裕典さんっていうことだよね。

林)つまり、自民党対野党共闘候補っていうこと。だから共産党も含め野党として郡さんを出しますっていうわけね。

岩佐)ちなみに他の候補者の年齢は?

林)郡さんが61歳。菅原さんが57歳。

岩佐)林は39だね。やっぱりリーダーが若返るって大事だよ。この前、千葉市の熊谷さんと離したんだけど、彼なんかすごよね。僕らと同じ39歳。もちろん年配の人が悪いっていうわけじゃないけど、今のこのスピード感に、この波に乗れる人じゃないとなかなか難しいなって個人的には思っているんだよね。

林)あとは発想だね。僕らの世代と上の人の世代って考え方がちょっと違う。どちらが良い悪いっていうわけじゃなくて、今こっちの考えでうまくいかないなら発想の転換をしてみよう、っていう考え方が重要だと思うんだよね。GRAはまさしくそういうことをやっているわけでしょ。

岩佐)うん。上の世代をリスペクトしつつも、新しい発想で日本を作っていく年代に差し掛かっているんだね、僕らは!

<後編へ続く>


林宙紀(はやしひろき)
昭和52年11月13日生(39歳)
宮城県仙台第一高等学校 卒業、ラグビー部(副将・バックスリーダー)。東京大学教育学部 卒業、東京大学アメリカンフットボール部(主将)。政策研究大学院大学(GRIPS) 修了、国際開発学コース(開発学修士)。国連開発計画(UNDP)、。地球環境ファシリティインターン、ソニー株式会社財務部を経て、ニュースキャスター・ナレーター等として民放各局にて活動。平成24年12月第46回衆議院議員総選挙にて当選(1期)、東日本大震災復興特別委員会、農林水産委員会・環境委員会に所属。

ローカルビジネス界の異端児 2人が語る世界への挑戦<後編>

話題沸騰中”九州パンケーキ”の生みの親、村岡氏が山元町のイチゴワールドへやってきた。ローカルを食ビジネスで盛り上げる2人の起業家の対談。

<前編はこちら>

[写真] パンケーキを焼く村岡氏


岩佐)せっかくなので、会場からも質問を頂きましょうか。

男性)九州を盛り上げるビジネスをしようと考えた時に、そもそもなぜパンケーキを選ばれたのか、もう少し詳しく聞かせてください。

村岡)ミックスの開発を始めた当時、東京ではパンケーキブームでした。ハワイの某人気パンケーキ店のオーナーさんと親しい間柄でして、ハワイ側から日本のブームを見ていたんですね。だからこれからはパンケーキ、というかハワイブームがくるなと。当時、テレビでも雑誌でもパンケーキを特集していましたよね。僕は一つの仮説を持っているんですが、圧倒的にカルチャーレベルまで根付くものというのは、言語変化するんですよね。つまり、20年前の1997年にスターバックスが銀座に初上陸してから、コンビニにラテの商品が並びましたよね。「マウントレーニアラテ」というのを皆さんご存知ですか?これ、発売から20年経って、中身がラテなのかカフェオレなのかコーヒー牛乳なのか、違いが分かる人っていますか?また、うちの20代のスタッフに「喫茶店に行こうか」というと、カフェと違うイメージのものが思い浮かぶと思います。こうやって言語変化するんです。10代20代の人たちが「パンケーキ」と言い始めて、これはホットケーキでなくパンケーキが広まるなと思いました。その時に僕は全てのスーパーに行って調査したんですが、パンケーキミックスが一つもなかったんですよ。だから僕がそこにパンケーキを並べようと。

岩佐)パンケーキブームはすごかったですが、いずれ終わるだろうなとみんな思っていましたよね。でも意外とマーケットに定着している。一過性のものと、ブランドとして定着するものとの違いを聞いてみたいです。

村岡)店舗は飽きられていきますよね。いわゆるパンケーキショップは飽きられます。圧倒的に力のあるものが投資をすれば、力のないものは淘汰されていく。スターバックスが広がっていき、次々と上陸してきたカフェは消えていっています。でもコーヒービジネスはそこから深化していって、サードウェーブなど今すごくいい形で残っていますよね。それと一緒で、パンケーキカフェやパンケーキメニューはもう行列はなくなっています。どんなに人気のパンケーキショップも、夏くらいには並ばなくなるかもしれません。でもパンケーキという言葉は残っていく。それがさっき言った言語変化なんですよね。つまり概念としては残る。

男性)パンケーキと何かのコラボ商品を作るのは面白いなと思っています。いろいろな候補があると思うんですが、これとやるのは面白いという具体的なアイディアはありますか?

村岡)パンケーキはある意味、プラットフォームなんですよ。世界中に持って行って、その土地の農場を訪ねてそこにあるいいものと組み合わせて作ることができる。今は、東北の素晴らしい農業と組み合わせて作りたいですね。これは本当に万能なミックスで、パンも焼けるしクッキーもやける。なのでその土地の農業と組み合わせて何ができるか、料理人の感性としては、肉とか野菜とか含めいろんなものと組み合わせることに興味があります。日本は小麦をほとんど自給していましたが、経済合理性上輸入が増えて今は小麦の自給率は30%くらいです。でも東北でも北海道でも、日本中でまだ小麦を作っているんですよね。小麦は僕らが昔から食べているものなので九州パンケーキは一つのモデルケースだと思っていて、例えばお茶の産地で採れる小麦と組み合わせて、抹茶パンケーキを作ってもいいと思うんですよ。それで小麦の自給率が上がったら面白いですよね。

岩佐)ちなみにパンケーキミックスの市場規模はどれくらいあるんですか?

村岡)全国で200億円くらいですね。小さいです。例えばコーヒー市場は1兆3000億くらいあります。焼肉屋のマーケットは8000億円くらい。47都道府県のスーパーマーケットで割ると、パンケーキミックスの売上はスーパー一店舗あたり1か月1万円くらいです。僕らはそのマーケットのだいたい1-1.5%を乗せているくらいのものです。僕らはシェアを10%、20%取ることを目的としているわけではなく、僕らが新しい概念としてパンケーキミックスをどれだけマーケットに乗せられるか、ということに関心があります。もっと言うと、パンケーキミックスがどれだけ大きく広がっていくかということだけに興味があるわけではなくて、さっき言ったように何かと組み合わせて横展開していくことなんですよね。ミックスがあれば例えばイチゴと一緒にご家庭に届けるようなビジネスを展開できます。それにはレシピが必要ですから、地元のパティシエさんに協力してもらって、レシピと一緒にミックスを届ける、そうすればミックスだけではなく、イチゴやパティシエさんのマーケットが広がっていくわけです。

[写真] GRA岩佐もパンケーキ作りに挑戦

男性)村岡さんと岩佐さんも、地域をどうにかしたいという想いが最初にあると思うんですが、その今のビジネスを続けていって、地域と人にどうなってほしいという想いがあるのか聞かせてください。

岩佐)山元町は人口1万2000人くらいで、震災前はだいたい1万6000人くらいいたので、20%くらい減っています。おそらく余程大きな成功か間違いかが起こらなければ、この町は確実になくなる、という状況なんです。普通にやって町がなくなるくらいだったらなんでも挑戦しよう、というような環境が地方には必要だと思います。
最近は行政も地方の挑戦を後押ししていて、リスクをとる自治体にはどんどんお金が入るようになっています。だから地域のあるべき姿は、リスクをとって思いっきり何かに挑戦するという雰囲気が町にできることかなと思います。僕の責任は、若い生産者や学生とたくさん話をして、たくさんの起業家が育っていくこと。そして、山元町に必ずしもいなくてもいいですが、山元町に本社を置いて何か自分でスタートしようという人が育ってくれることが、僕の町や人に対する想いです。


村岡)僕も、同じくチャレンジしてもいいという文化を作りたいんです。僕は実は小学生のときは吃音障害があって、母音が出なかったんです。だから日直の時に「おはようございます」というのがすごく緊張して、泣きながら学校から帰っていました。で、28歳の時には会社を潰してしまっていて、もうこれで終わりなんじゃないかと思っていました。でも今こうやってみんなの前で話をするときには、僕はいつも、小学生や28歳の頃の自分を後ろに座らせているんです。で、話し終えた後に、その時の自分を抱きしめるんですよね。大丈夫だよ、と当時の自分に言ってあげるんですよ。だってこうやって今、人の前で喋れているじゃないですか。小学校の時の自分は本当にビルの上から飛び降りようとしたし、28歳の時には言われなきことで蹴られたり殴られたりしましたよ。
真面目なやつほど商売で失敗して、未だに大きな借金を背負っている人もいるし、中には命を絶ってしまった人もいる。でも、挑戦していいんですよ。こんな時代だから。このままだったら山元町はなくなるわけです。このままだったら宮崎もなくなるわけですよ。どんどん一極集中していって、東北は仙台に、九州は博多に集約されていっていくわけです。福岡の人たちが、「九州は一つ」と言っても、宮崎の僕はしらけるわけですよ。地方の小さい町の小さな会社であっても挑戦していいし、もし失敗した時にも、地方のみんながお互いに肩をたたき合って、次に何やるの?と言い合えるような文化を作りたいなと思います。

岩佐)徳川家康みたいですね。家康は武田信玄にぼこぼこにやられたときに、その時の自分の肖像画を描かせて置いていたらしいんですね。それを見て反省したり、自分に優しくしたりしていた。もしかすると宮崎から本当に武士のような人が生まれたんだというような気がしました。では最後の質問。

男性)僕が村岡さんの名前を知ったのはパンケーキではなくMUKASA-HUBというプロジェクトでした。宮崎の廃校を買って起業家のハブにしようとしていると思うんですが、MUKASA-HUBを何故作ろうと思ったのか聞かせてください。

村岡)小学校って買えるんですね、みなさん(笑)九州パンケーキが成長し始めた時、僕は倉庫を探していたんですよ。そしたらたまたま小学校が売りに出るらしいと聞いて、見に行ってみたら、夕日を浴びてすごく綺麗だったんですよ。蛇口が光っていて。僕はその場で携帯を取り出して、会社の経理に小学校を買おうと思う、と話しました。最初の計画の何倍もお金がかかって今苦しいんですが(笑)何をやるかと言うと、一つは九州パンケーキの配送拠点にするんですが、持て余したスペースにはコーワーキングスペースを作って、みんなで地域のビジネスを考える場所を作り、二階にはうちのオフィスだけではなく、地元で新しい産業を起こそうとするようなベンチャーの起業家たちに入ってもらって、そこにビジネスコミュニティを作ろうかなと思っています。
実は僕にとっては久しぶりの経験で興奮しています。僕は10代の頃には古着のバイヤーをやっていて、30代の時にはタリーズコーヒーを始めました。タリーズは今日本で700店舗くらいあるんですが、実は日本のフランチャイズの第一号契約を取りました。今あの時の興奮があるんです。スターバックスが80年代から90年代にアメリカで一気に広がっていって、ものすごいムーブメントを起こし、90年代後半から2000年代には日本でもカフェカルチャーが広まりました。
これから、コミュニティの在り方の再編成が起こります。先週シリコンバレーにいって確信したんですが、一つのコワーキングという概念が、全国ものすごい勢いでスタートします。単なる場所ではなくて、たくさんの面白い人達が集まってきて、それが全国で繋がってネットワーキングしていって、必要とする人やモノやお金をボーダーレスに共有できるようになる時代が来る予感がしています。
僕は南九州のMUKASA-HUBを九州の拠点にしようと思っています。もしかしたら東北の拠点が山元町になるかもしれないし、そこにはレストランやカフェが集まるかもしれない。これからは行政とか県境に影響されないようなビジネスの枠組みが生まれてくると思うんですね。むしろ行政がその場所を後付けで利用するようになってくると思います。

岩佐)日本は本当の意味でのコーワーキングスペースは少ないんですよね。単なるオフィス貸しにすぎず、コワーキングの概念は、自分にない力を持っている人と出会えるような、人と人が繋がっていくことなんですよね。そんなのものがもっと増えればいいなと思います。


村岡 浩司
有限会社一平 代表取締役。1970年宮崎県宮崎市出身。1966年から続く老舗寿司屋の二代目社長。高校卒業後に渡米し起業。帰国後も小売卸業や飲食店などを開業し、2001年にはタリーズコーヒーの九州1号店を開店。2012年には九州パンケーキミックスを開発し、九州や台湾をはじめ国内外に展開、熱狂的な支持を得る。現在も「一平寿し」、「タリーズコーヒー」、「九州パンケーキカフェ」など多数の飲食店舗を経営する。

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プロフィール

岩佐大輝

Author:岩佐大輝

1977年、宮城県山元町生まれ。株式会社GRA代表取締役CEO。日本、インドで6つの法人のトップを務める起業家。 詳細はこちら≫

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